warabi's tagebuch

カテゴリ:アート Kunst > ダンス Tanz

昨日Tanztheaterで有名な、あのPina Bauschピナ・バウシュが亡くなった(68歳)。
原因は5日前に診断されたガンだったという。

彼女は世界のダンスシーンを揺るがせた日本へは10年以上前から毎年のように来ていたので、ご存知の方も多いだろう。

舞台芸術の世界で"コラボレーション"という言葉を聞くようになってからはよく見られる手法だが、演劇とダンスを混ぜ合わせたようなTanztheaterという分野を開拓したのが彼女であった。
"今では当たり前"を最初に歩んだこの道のパイオニア。
舞台一面に敷き詰めたカーネーション(『Nelken-カーネーション』1982年,舞台美術:Peter Pabst)はあまりにも有名である。

そういえば、去年の秋、そのPeter Pabstと一緒にした仕事が思い出される。ホワイエ全体にカーネーションを敷き詰めたっけ。

彼女は毎年精力的に新作を発表しているのだが、ちょうど今年の新作を発表したばかり。
大好きなダンスの世界で生き抜いたという、考えてみれば一番幸せな生き方かもしれない。
多くの感動を与えてくれたことに感謝、そしてご冥福を祈りたい。

世界中がオバマに沸く中、warabiはフォーサイスに沸く。

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フォーサイスのGPに立ち会う。
フォーサイス本人は、とても穏和でユーモアが有る非常に人間的に厚みのある人。

いうまでもないが、彼のカンパニーThe Forsythe Companyは、世界的に有名で人気のあるダンス・カンパニーの一つ。フォーサイスの才能もさることながら、非常に高度な技術を誇ったダンサーを雇用し、人材だけでなく器材にも大金の出せる体力を持っている。
そう、有名だから観客も集まるし、いい作品を作るからリピーターも新規の顧客も増えるわけで、スポンサーも付き、売り上げもものすごい。そしてお金持ちだから、いいダンサーも雇えるし、新しいことにチャレンジする条件は整うのである・・・

ああ、そんなことを書こうと思ったのではない。
もう少し芸術的なことを。。。

彼はコンテンポラリーダンスのパイオニアで、ものすごいスピードと流れるような連続動作の中に、非常に高度な技術と信じられないような複雑さが絡み合った、息をするタイミングを見失うような勢いのあるものを得意とする。
しかし、今回のDecreationは少し違っていた。

解体・再構築が歴史のコンテンポラリーダンス、decreationというタイトルはdeformation(ゆがみ、変形)、深い愛情、怒りを扱っているところからきているという。
入り込んだ人間関係やらがライブで演奏される拡張された音やリズムで身体を歪ませていく。その歪んだからだが、絞り出した声が拡張され、さらに観客の耳を歪ませる。
テーマは3つ。単純化、真空化、幻想化。
なるほど、空気の振動で”真空”を作るということか。

舞台上下手には音楽か演奏用のキーボード、そしてスタンドにのった移動カメラ。スタンド・マイクがあちこちにあり、中央奧には縦型にプラズマが置かれている。その他、舞台上手奧に大きな丸テーブル、両サイドに控えようのイス。

18人の専属ダンサーはみんな素晴らしいのだが、中でも安藤洋子の存在は大きいことが、稽古の様子からも伺える。
もともとフォーサイスは褒め上手(実際みなさん信じられないくらい素晴らしい)なのだが、それでも彼に「素晴らしい」「いいね、すごく」といわれると、ダンサー達は嬉しそうで、特に安藤さんは「ありがとう」と素直に言葉に出す。

安藤さんの動きは非常に狂っていて(すごいという意味です!)、各関節にまるで意志があるように勝手に動くものを彼女が身体を通して統合を図っているという感じ。
(普通の人はすぐにぶれてしまうとして)普通のダンサーにぶれない軸があるとすると、彼女には複数のずれた軸があるように見える。
普通は何かの動き中にほかの動きをすると無理が出たりする。それをダンサーはしなやかにやり過ごすわけだけど、それを同時にいくつものこなすのには技術がいる。その技術とは、身体の自由度(柔軟さ)や筋肉や軸のバランスだったりする。そして、それには大抵テオリーがある。

彼女にはそういうテオリーが無いように見えるのだ。
いや、きっとあるのだがそれが彼女独自オリジナルなのだ。
なぜそう見えるかといえば、彼女の身体が腕とか足とかいう単位で動いているのではなく、上腕、肘から先、手のひら、指と全く違った方向にしかもすごい勢いで動いてしまっているからに違いない。

昔何かの本で読んだのだが、彼女が武道に関心を持ったのは「(武道の)相手を感じ、相手の力を受けて、その力を利用して返すことがダンスに近い。いやまさにダンスそのもの。」というようなことをいっていた。きっと、その辺にヒントがあるのだろう。

後半にある男性同士のデュオ(一人はヤスと呼ばれていた島地くん)は、フォーサイスのテオリーにあるような、しかし難易度の高い(非常に密着して流れ常に10cmとは離れない)ものであった。

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ふたりの日本人アーチストが同じドイツでがんばっているのを横目で見て、warabiはとても励まされるのであった。

ここのところ、眠い日が続いている。
先週は様々な姿勢を目の当りにする機会があったので、そのことについて触れ見ていたい。
(演劇→ダンスにカテゴリを移動しました)

まず、SUTRAで少林寺の瞬時に力をためて動く筋肉としなやかに伸びる筋肉を比べ見た。
作品自体はもっとダンスしてほしかったので多少残念だった気もするが、
毎日訓練を重ねている目的の違った筋肉を同じフリを踊らせて比べるのは、
なんだかとても興味深いものであった。


そしてチェルフィッチュ(演出:岡田利規)の"3月の5日間"。アメリカのイラク空爆直前の2003年3月の5日間の出来事をつづった作品だが、これに出演するのは渋谷にいる若者たちを演ずる若い俳優で姿勢も肩が少し前に傾いていて引きづるぞうに歩く。
そう、日本人特有の体勢。
これを見て、日本人てつくづく姿勢が悪いよなぁと思わされる。


最後は、刑務所の囚人たちによる演劇Kasper H
刑務所といっても15?18歳くらいまでの少年たちが入る少年院(?)。
その中の人たちが有志の団体(スタッフ)の助けにより作品を作り、一般の人がチケットを購入して刑務所まで見に行く仕組み。
今回はその中でも若い人たちだったので、まだあどけない顔の子たちが演じたわけだが、その舞台に立つ姿勢は欧米人特有の厚みのある肉体であり、院の中の観衆のためかものすごく軍隊的であった。

人間と一口に言っても、いろんな人たちがいる。
いまさら、すごく当たり前だけど。
そしてその身体で表現されるものは(その身体の存在だけでも) とにかく特有のものなんだなぁ、思ったわけである。

だからもちろん向き不向きがあるわけで、やはり何を表現できるのか、またはそれが真似事にならないか(無理ではないのか)ちゃんと見極めなければいけないのではないだろうか。

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会場はSchaubuehne am Lehniner Platz 。

特徴であるRのあるグレー壁を黒で覆い、背景にはあのブルーシートがホリゾントのように吊り下がっている。チープだけど、こだわりがわかるチープさ。

舞台上には左手にデフォルメされた庭の断片。
石像には(なぜかでっぷりと太った相撲レスラーのようなとっちゃん)ぼうや。(巨大に見えるけどきっと)原寸の庭園用噴水。その向こうには金ぴかの(可動式テントに見える)豪邸。
パースの違和感がきっと狙いに違いない。

右手にはスケートボードの遊び場のようなせり上がった半球型の壁。その壁の所々は透明のアクリボード。これが見ようによっては「積み木」のように見えなくもない。
そして右手前にはバンドのエリア。

コンスタンツァの作品らしく相変わらず舞台ははちゃめちゃだが、以前に観た「Back to the presents」(2004)と比べて振り付けや音楽性の完成度が高くなっていたし、演劇的要素が多くなったことも感じた。
完成度については、時間と予算が以前とは違っていることも影響しているだろう。
予算が大きくなったことは歴然で、それは装置を見ても、衣装の数と質を見ても、LIVE演奏を見ても明らか。
音楽性は古典クラシックやアカペラを使うなど上品な雰囲気となり、でもポップな名曲を体当たりしながら切り返すなど、彼女の元気さが見えた。
結婚生活の希望を歌にした、「・・・がほしい。・・・も、キッチンも、・・・、そしてiPod。」やリズムの中、「I'm pussy, I'm Beijing. I'm Sushi, ... singapore ... Hiroshima .... 」とアジアの地名や食べ物を並べて、差別用語歌を作ったり、歌詞のセンスも光る。
彼女の作品に参加するにはダンスがうまく踊れるかではなく「音楽センスを持っていることが重要な鍵」というのも頷ける。演奏家も複数の楽器を操り、ダンサーは歌も言葉もバイリンガルだし、一人何役もこなす。すごいわ?。

Brickland(コンスタンツァが生まれたブエノスアイレスの地からきている)は、人生の絶望や孤独等を隠すためのファサーデで、カオスの裏には「慰めのない避難所」(集合住宅や団地)がある。それはどこということではなく世界中にこのような場所はいくつもあると説明している。牧歌的な雰囲気の中で孤独と惨めさを揺れ動くような、皮肉や笑いを込めて作られているイメージ。

ドイツのことわざに、
"Das Leben ist kein Ponyhof." 直訳だと「人生はポニー小屋(中庭)ではない」
(実際ドイツでは子供に馬ではなく小さな馬のポニーを買い与えることがある。日本でいうと犬や猫といったペットの感覚!? う?ん、さすが庭が広いドイツ!)

というのがあるが、warabiはこの作品を見ていてまさにそれだ!と思ってしまった。
子供の頃に人形の家で遊んだり、大人になったらこんな生活をして・・・と思うのが普通だが、人生はそんなバラ色ではない。
実際は、夢のマイホームは遠いし、旦那が家に帰ってこなかったり、セキュリティの人にセクハラされたり。いろんなものが積み重なって現実は重くなる。

そういえば、ヤン・ファーブルのオリーブ・オイルをまき散らして舞台上を滑る作品があったが、それを思わせるシーンと、DV8の映像作品「The cost of living」の足のないタフなダンサーが踊るシーンとダブるところがあった。もちろんパクるつもりはないだろうけれど・・・気になるのよね。こういうの。

ダンス作品にしては長丁場の約2時間。
1/27の日曜まで上演しています。是非。

北千住に新しくできた1010シアターでのNoism07公演、「PLAY2PLAY――干渉する次元」を鑑賞。

「駅前のmaruiのビルにこんな大きな劇場を作って大丈夫なの??」と思ったのが、第一印象。とにかく立派な劇場だ。しかし、中はまだまだ人が育っていないのか、荷物を預けるクロークが用意されていなくて、大きなトランクをもってお上りしたwarabiに対して、
「クロークはありません。」
  「ではロッカーはありますか?」
「ロッカーは・・・」
  「では、預かってもらっていいでしょうか?」
「お預かりはしていないんです。」
とここまできて、この荷物を客席に持って行けというのか?と目を下にやるwarabi。ここで、「・・・この荷物は客席には置けまい」とようやっと分かった様子。それですったもんだして、他にも断られた先客の荷物と共に、結局預かってもらうことに。

このやり取りはあり得ない。こんなの初めて・・・あるんだな?、こういうの。

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 さて、中身。

作り手側は3年間の集大成といっていたが、どうもダンサーのクオリティーが以前よりも下がったからか、warabi的には納得がいかなかった。美術や音楽は今まで通り、気合いの入ったもので、特に今回は大きな舞台上に、4m高のハーフミラー三角柱を8つ舞台に載せ、それがダンサーによって稼働するという、動くカレイドスコープ。
ミラーの向こうで踊ったりすると、次元が違うように見えるのだ、とかいってたが、それよりも踊りが。。。

warabiにそう思わせたのは、
井関佐和子氏の体の切れが素晴らしかったため。
彼女とその他という風に見えてしまい、以前よりもその差が歴然と分かってしまう辺りが、残念な状況である。他のダンサーもけして下手なわけではないのだが、どうもバランスが悪いというか、、、なので、井関さんだけがたくさん踊る作品となっている。

日本のアンサンブルに頑張ってもらいたいので、今後も見に行くつもりだが、1年契約という条件下でクオリティーを保つというのは、大変だな?としみじみ(金森さんの苦労が分かる気がする)。
いいダンサーはさら成る経験を求めて、海外へ出てしまうし、日本のコンテンポラリーダンス界の裾野はまだまだ狭いのが現実。それで食べていくっていう風になるには、どれだけの時間と環境の改善を必要とするのだろうか。

"shikaku"や"black ice"で見せてくれた、ああいう「衝撃」を次回作に期待したい。

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